芥川龍之介「蜘蛛の糸」あらすじ・読書感想文|この小説の”教訓”とは?

感想文
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芥川龍之介の短編「蜘蛛の糸」、有名な物語で教科書などにもよく掲載されていますよね。芥川にはいくつかの児童向け短編小説がありますが、実は「蜘蛛の糸」は初めての児童向け作品です。

お釈迦様と地獄のカンダタという2つの視点で進んでいくこの物語は、とても読みやすくて、読み終えた後に、教訓のようなものを感じるという人が多いです。

読書感想文の題材としても、とても書きやすくおすすめの一冊です。

さて、本記事では「蜘蛛の糸」の

 

  • 簡単なあらすじ
  • 読書感想文(例文2つ)
  • この小説に込められた教訓

 

についてまとめています。読書感想文を書かれるなら、ぜひご覧になってみてください♪スムーズに書き上げることができると思います☆

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「蜘蛛の糸」あらすじ(ネタバレ)

ある日の朝、お釈迦様が極楽の蓮池のほとりを散歩されていた。その蓮池には、白い蓮の花が咲いており、よい匂いが溢れている。蓮の池の下には、地獄の底が見えており、様々な罪人がひしめき合っていた。お釈迦様は、そんな様子を蓮の花の間からご覧になっていた。

 

地獄の底には、犍陀多(カンダタ)という男が、他の罪人と一緒にいるのが見えた。この犍陀多は、殺人や放火など様々な悪事を働いた罪人であるが、一つだけ良い行いをしていた。それは、林の中で小さな蜘蛛が這っていた時、一度は踏み殺そうとしたが「命あるもの」と思い返し、殺さずに逃がしたことがある。お釈迦様はこの事を思い出され、この男を地獄から救ってやろうと思われた。そして、お釈迦様は極楽にいた蜘蛛の糸を白い蓮の隙間から地獄の底へと下ろしていった。

 

地獄の底にいる犍陀多は、血の池の中から空を見上げていると、天上から一筋の細い糸が垂れているのに気が付いた。犍陀多はこの糸に縋りつき登って行けば、地獄から抜け出せるのではないかと思い、両手で糸を掴み上へと始め登り始めた。犍陀多は、しばらく登って行くと途中で疲れてしまい、糸にぶら下がりながら一休みをした。

その時、登ってきた下を見下ろすと、地獄の底にいた罪人たちが犍陀多の後に続いて次々と登って来ているのが見えた。犍陀多は、細い糸が人々の重さで切れてしまうのではないかと心配に思い、「これは俺の糸だ。下りろ」と下へ向かって大声で叫んだ。その瞬間、犍陀多がぶら下がっているところから、糸がぷつりと音を立てて切れてしまった。犍陀多は、真っ逆さまに地獄の底へと落ちて行ったのである。

 

極楽の蓮池のほとりから地獄の様子をご覧になっていたお釈迦様は、犍陀多が血の池の底へ落ちると悲しそうな表情をされ、またぶらぶらと散歩を始められた。極楽の蓮の花からは良い匂いが溢れており、昼の時刻に近づいていた。

「蜘蛛の糸」読書感想文

私はこの物語を読み、まずお釈迦様も犍陀多と言う男も人間味に溢れていて、とても面白いと感じた。極楽や地獄などは現世に生きている私たちにはとても想像できない上に、どこか仰々しいイメージがあるように思える。

 

そんな極楽に居るお釈迦様が、地獄にいる犍陀多を「生きているうちにいい行いをしたから」と言う理由で、地獄から救い出してやろうと考えたのは、とても人間臭くて興味深いなと思った。しかも、その犍陀多を救うための道具が、極楽にいた蜘蛛の垂らす糸となのがとてもお茶目な感じがする。

犍陀多が生きているうちに行った善い行いが「蜘蛛を殺さずに助けた」という事で、それが巡り巡って犍陀多を助ける道具となるのは面白いと思う。また、当たり前かもしれないが、極楽と地獄の様子とがどちらも正反対で対比されているのが、住んでいる世界が180度違うのだという事を強く表しているようで、さらに話に引き込まれた。

 

そんな仄暗い地獄の血の池で浮き沈みしていた犍陀多であったが、彼はおどろおどろしい地獄の様子を見ていると、ふいに自分に向かって下りてくる蜘蛛の糸に気づくわけだが、ここで「これは自分のための蜘蛛の糸だ」と彼が気付いたのが、どこか可笑しく私は感じた。もしかしたら隣の罪人のものかもしれないし、他の誰かのものかもしれないのに。でも、彼は自分のためだと気づいたのだ。それはもしかしたら生きている間に自分が蜘蛛を助けたことを覚えていたのかもしれないが…それでもよく気が付いたものだと思った。

 

そして、自分のための蜘蛛の糸に犍陀多は迷いもせずに、地獄から抜け出せるかもという気持ちで一心不乱に登っていく。このまま登っていけば、もう地獄で過ごさなくていい。針の山へ追い上げられる事もなければ、血の池に沈められる事もなくなる。そんな思いを胸にせっせと登っていく犍陀多。彼が思い出している地獄での様子が、彼がこれまでどんな仕打ちを地獄で受けてきたのかが分かり、読んでいる私も胸が痛い思いであった。このままいけば、犍陀多も地獄から抜け出せる。

 

そんな期待を抱き始めた頃、登っていくのが少し疲れた彼が下を見ると続々と地獄の罪人たちが自分の後を続けて登ってくるのが見えるわけで、彼は「このままでは自分が助かることもなく落ちてしまう」と思い危機感を感じたんだと思う。実際犍陀多は、他の罪人たちに向かい「これは自分の蜘蛛の糸だ! 下りろ、下りろ!」と叫んだわけである。

 

しかし、そう犍陀多が叫んだ瞬間、蜘蛛の糸はプツンと切れてしまう。そして犍陀多は他の罪人もろとも、地獄の血の池へ真っ逆さま。地獄の罪人たちの一人に戻ってしまった。この犍陀多の行動もまた、人間臭さを表していると思う。

私だって、自分がつらい状況から抜け出そうとしている時に、もしも他の人間がそれを邪魔しようとしたら、暴言が口をついて出てしまうのが人間だと思うからだ。とは言え、それでは犍陀多は極楽に来れるような人間にはなれない、というのがお釈迦様の考えだったのだろう。蜘蛛の糸によって助かるはずだった犍陀多は、自分勝手な言動のため極楽へ上がる道が途絶えてしまった。

多分これは人間の自己中心的な考え方や行動への戒めの話なのかもしれない、と私は考えた。登場人物のお釈迦様の行動もどこか人間味があるのは、もしかしたらこんなメッセージが込められているのかもしれないと思った。

”人間を救うのは人間だが、その行動一つで救ってくれる人の気持ちを損なってしまって、自分が助かるかもしれない道を閉ざしてしまうことにつながる”と言うこと。つまり、人と人との助け合いの関係を遠回しに伝えている話なのかもしれない、と私は感じた。

幼少の頃に「悪いことをすると、地獄へ落ちる」と言われたことがある人は多いと思う。ここに出で来る犍陀多(カンダタ)という男は、殺人や放火など様々な悪事を働いたために地獄へ落ちたのである。しかし、そんな男でもたった一度だけ林で見かけた蜘蛛を「踏み殺さずに助けた」という善い行いをしていた。そのおかげで、お釈迦様が地獄から助けてあげようと思われ、犍陀多にチャンスを与えたのである。結局、犍陀多は、地獄から抜け出すチャンスをものにすることができなかった。罰を受けて地獄へ落ちたにも関わらず、これまでの悪事に対して、全く後悔や反省をしていなかったために、再び地獄へと逆戻りをしてしまったのである。

 

日常生活の中で、悪い事とは何か。犍陀多のように殺人や放火などの犯罪もあるが、例えば、「ゴミやタバコをポイ捨てする」「順番を守らない」「人の悪口を言ったりネットに書き込む」など頻繁に見かけるような事も様々ある。人には「誰も見てないだろう」とか「自分一人ぐらいいいだろう」とか自分勝手な理由で、これらの事を平気でやっている人が後を絶たない。

では逆に、日常生活の中で善い行いとは何か。例えば、「電車でお年寄りに席を譲る」「困っている人を助ける」「ボランティア活動をする」など、程度の違いはあれども様々ある。しかし、人は「せっかく良いことをしても誰も見ていないのだから」という気持ちがあり、中々出来ていない人も多い。

 

悪い事も良い事も人は「誰も見ていないから」という考えを持っているが、実はお釈迦様が常に上からご覧になっているのだということが、この作品には描かれている。この作品を読んで、人は「誰かに見られている」「誰かが見ている」と思うことで、「ポイ捨て」を思いとどまることが出来たり、「席を譲ってみよう」と思ったりすることが出来るのではないだろうかと思う。

 

犯罪となれば刑罰があるが、「ポイ捨て」や「人の悪口」などには刑罰はない。現代社会では、自分さえよければ他人の事はどうでもいいという風潮が見受けられる。人々の生活が豊かになっていても、人の心が貧しくなってしまっているのだ。しかし、少し考えれば、自分のしたことで他人に迷惑をかけていることが想像できると思う。一人一人が想像力を働かせ、自分のやろうとしていることが周りにどんな影響を与えるのかを考えることが出来たら、この世の中から悪事が無くなるのではないだろうか

 

もう少し、広げて考えてみる。普段の生活の中で「どうせ誰も見ていないし、誰も認めてくれない」と投げやりになってしまうことがある。自分が真面目に取り組み頑張っている姿は本当に誰も見ていないのだろうか。この作品のように、日常生活の中で日々お釈迦様を感じることは少ないかもしれない。

けれども、人は困難に直面した時、神社へお参りしたり、先祖のお墓へ行ったりすることがある。神頼みである。また、「ご先祖様の恥にならないように」と言われることもある。だとすれば、普段から神様やご先祖様を意識することで、「誰も見ていない」と言うことはなくなるのではないだろうか。自分が真面目に一生懸命頑張る姿は、必ず誰かが見ているのである。真面目に頑張っている姿は、必ず認められチャンスがやって来る。そして、そのチャンスがやって来た時に、そのチャンスを逃すことなく活かすことで成功へとつながると思うのである。

「蜘蛛の糸」解説|教訓や作者が伝えたいこととは?

私が考えるこの小説の教訓は、こちらの2つです。

 

  • 変わる(成長する)ことの大切さ
  • チャンスは一度きり

 

犍陀多は多くの悪事を働いてきた罪人ですが、お釈迦様のふとした思いつきによって、地獄から抜け出るチャンスに巡り合います。しかし、自分が助かることしか考えなかった犍陀多は、結局そのチャンスを失ってしまい、元の地獄での生活へと戻ってしまいました。つまり、

 

どんなに過去の行いが悪くても、ふとした時に救われる可能性はある。ただし、ちゃんと改心して成長できていたなら。

 

ということが言えます。

あるいは、

 

いつやってくるかわからないチャンスを活かすために、普段から正しい振る舞いができるような状態でいよう

 

ということではないかと思います。

“誰にでもチャンスはあるけれど活かすか殺すかは自分しだいですよ”というメッセージを感じました。

同じチャンスは二度とはやってこないですが、また形を変えてチャンスはやってくる可能性があります。その時に正しい判断ができるよう、日々進化していくのが大切なのだと思います。

ところで、この作品を読み終えた後に、”人間らしさ””人間臭さ”みたいなものを感じるという人は、とても多いと思います。特に、次のような行動がそうではないでしょうか。

 

  • 犍陀多:蜘蛛の糸を独り占めにする
  • お釈迦様:ふと気まぐれで、悪人に救いの手を差し伸べる

 

犍陀多の行動は、わかりやすいです。蜘蛛の糸で自分だけ助かればいいと考え、下からぞろぞろのぼってくる罪人たちを蹴落としました。同じような類のことは私たちもやっていたりしますよね。

犍陀多のように暴力を振るうことはなくても、日常生活で見て見ぬ振りをしたりすることありませんか?私は、正直あります。自分に不利になりそうだと判断したら、間違ってると思っても口に出さずにやり過ごしてしまうことが・・・。だから、犍陀多にどこかしら共感を覚えてしまうんです。

 

そして、お釈迦様も実は人間くさい。ふとした思いつきで人を助けようとして、最後ダメだったらサッと行ってしまうところなんて。その時の気分だったりで、自分の行動を決めてしまったりすることってたしかにあります。電車の席を譲る、募金をする、など自然にする時もあれば、なぜだかしない日もあったり。

私の場合はそうなのですが、あなたはどうでしょうか?

お釈迦様の思いつきで行動するところが、なんだか人間らしいなって感じます。

 

登場人物が人間味にあふれているから、余計に共感を覚えることができて、教訓めいたことを感じやすいのではないかと思います。

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「蜘蛛の糸」あらすじ・感想文まとめ

芥川龍之介「蜘蛛の糸」のあらすじ・読書感想文・物語に込められた教訓について、見てきましたがいかがでしたでしょうか。

あらすじで結末までの流れをおさえて、ご紹介した読書感想文を参考にしつつ、ぜひあなたらしい読書感想文を✒

教訓のところでご紹介した内容を、あなたのエピソードで広げると、スラスラと進むのではないかと思います☆ぜひ、楽しみながら書いてみてくださいね(^^)/

芥川の他のおすすめ作品については、こちらでまとめています。よければご覧になってみてくださいね👀

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